流行の波に乗る前、人の気持ち
目の前に大河が広がっている。ゴオオと音を立て飛沫を上げる。身を乗り出そうものなら奔流に引きずり込まれてしまうだろう荒れ狂いぶりだ。
その奔流にあって、かたやPPAP,かたや恋ダンスなるものが時流のうねりに乗って、ドンブラコと流れてくる。波に揺られ、渦で方向を見失いそうになるも、うねりに逆らうことはしない。それでいて留まることを知らず、下流へ流れていく。そうしていずれは海に辿り着くだろう。
しかし、海がゴールなのではない。川が彼らのステージなのだ。それを僕らは川岸の畔から見ている。安全注意!の看板に寄り掛かりながら彼らのパフォーマンスを眺めているに過ぎないのだ。
私も泳いでみたい。流れの中にあって揉まれたい。彼らはどのようにして川に飛び込んだのか。どうして飛び込もうと思ったのか。彼らの姿が下流へ消えていくのを確認する前に、私は上流へ歩き出した。
私は流行っているという理由でピコ太郎が好きなのではない。ピコ太郎が好きだから好きなのだ。たしかに今回のムーブメントによって彼を知った人が多いだろうし、私もその一人だ。
でも、彼のパフォーマンスに注目が集まっているばかりで、その裏側まで知ろうとする人は少ない。彼をムーブメントとして消化しているミーハーな人は特に。
彼は一発屋では終わらないと思う。彼の目に私はそれを感じた。彼は今を生きているのだ。海の広さや美しさに目を奪われてはいけない。川のうねりに必死で食らいつく、そのプロセスに人は共感を得るのではないだろうか。
PPAPをyoutubeにアップする前、彼は何を考えてたのか。想像するだけで鼓動が早くなる。顔に当たる飛沫とひんやりした空気に、彼の決意を想像するのは難くない。
彼のことを面白くないと批判する人を私は批判しない。だが、彼の持っている勇気に似た何かを我々も持っているのだ。彼のそこだけは自信をもって褒めてほしいと思う。
彼のことを、恐れを知らない人間だと決めつけるのは尚早だ。彼は普通の人間なのだ。
特に意味はないがブログを始める。
完全に迷った。人生の袋小路だ。世は広しといえど、推薦を頂いておきながら蹴った人間はこの俺くらいのもんだろう。破り散らしたA4レポート用紙に殴り書きした「辞退届」とも呼べぬそれを受け取った学生課の人には申し訳ない。
頭脳明晰知勇兼備眉目秀麗の天が三物与えたような男は己の力を過信した。研究に嫌気が差し指導教員との馬の合わなさにかけて私の右に出るものはいなかった。私は一人でも生きていけるのだ、誰の力を借りぬでもよい!と威勢のいい言葉を吐き連ね、5年を過ごした高専寮から引き揚げた。
そして半年後の現在。自宅でパソコンをバコバコ叩きながら河童の鳴き声のような鼻歌を歌っている。何とも哀れだ。することが何もない。遊びを考えていた幼き頃の自分を尊敬する。幸運なことに、趣味とも呼べぬ読書用に日頃気になる本を買い揃えていたので、本を読むことで気を紛らわせた。積み本を切らさぬよう、読んだ分だけamazonでポチるのを習慣化し、泥のように汚れた部屋で泥のように本を味わい泥のように寝落ちする毎日。
なにかが吹っ切れた。
ブログを書こう。そう思い立った。思い立ったが吉日。行動するのに憂いはいらぬ。座右の銘は「とぅーどぅーりすとに鉄槌を!」だ。人として生きる。人らしく、もっと本能的に、怠惰に母性的に人情に任せて流れていく。
俺は死なない。少なくとも魂は、だ。