果ての定点観測所

何万年後かに掘り起こした研究者へ

貨幣、人間らしさ

先日のRoamers OÜ決起会では通貨の話が盛り上がったので、自分なりに通貨とはなんぞやというのを改めて考えてみた。いま創っている感謝経済そして、startup weekendで賞をいただいたテーマ『減価地域通貨』をもってしての地方創生。

自分のなかで何かが繋がった気がする。

 

どうしてここまで貨幣に魅せられるのだろう。自分なりに辿りついた一つの答えは、その価値が人間の歴史と共にあるから。人類が滅んだとき貨幣の存在もなくなる。ゼロになるのではなく無になる。nullだ。

人間が信用し合うことで保たれる存在は人類が滅ぶことで終わりを迎える。物質としては海底に残り続けるかもしれないが、価値の存在はなくなるのだ。

なんて美しいんだろうと思った。人類の歴史の中だけでしか生きられず、それでいてあらゆる物質のなかに存在する「寿命」が貨幣だけにはない。

一万円札は来年も再来年も一万円のまま。貨幣には価値保存の機能があるから、消費期限がない。時間軸から取り残されている唯一の概念なのだ。

つまり貨幣とは、人類の歴史の生き字引で、信用の契約書なのだ。

 

ただ異例もある。

田舎のコミュニティでは、お隣さんが玄関に大量の野菜を置いてくれることがままある。お返しに庭でとれた蜜柑や柿、裏山の筍をあげたりするのだが、ここに貨幣の介入は一切ない。相手への感謝の気持ちを感謝の気持ちで返すことで、お互いの信用は自然に高まっていく。信用できる人にはさらにたくさんの感謝の気持ちが届く。こうやってコミュニティ内で地位の高い人は、人に与える人が多くなる。たくさん与えるにはそれなりの年月が必要。よって昔の徳治主義で運営されていた自治体などは高齢の方が多くなる。うちの地元だけかもしれないが、年配の方はみんな優しい。

徳の高い人がみんなマネジメント能力があるとは限らないが、ついて行きたくなるリーダーは明らかに前者だろう。マネジメント能力だけではリーダーになれない。

 

最近「ものを知らない人が増えた」とよく聞くが、正しくは「ものを知らない人でも声を上げることができるようになった」だと思う。『社会に参画する大部分がものを知っていることを前提とした社会制度』は曲がり角を迎え、人間が人間らしい生活を営むことが社会貢献に繋がるシステムに切り替わってくるだろう。

 

現に、コミュニティの運営手段としての貨幣を全員で管理するシステムがついに誕生した。

これによりリーダーから運営する能力の必要性はなくなり、徳の高い人がコミュニティ内で求心力を得られる世界がもうすぐ来るだろう。

その基盤として感謝経済があると思っている。

 

金本位制のもとでは金が、ニクソンショック以降は国家の信用がそのまま貨幣の信用度に結びついている。

そしてブロックチェーンが誕生してからは、信用のパラメータを管理者全員が握ることで、信用が担保されている。全員がシステムの管理者であれば、マジョリティが共闘して悪いことをしない限り信用が成り立つ。

 

いま仮想通貨市場が悲鳴を上げている。

下落率は4割を超え、数字を見て一喜一憂する投機家が大勢いるなかで、その先を見据えて行動している人が一定数いる。

今年は何かの元年になるそんな気がしている。