「死にたいときに死ねる社会」では何が起こるか?
たまに話題になる「安楽死問題」。
「病気で苦しみたくないから」「人生がつらい」など理由は様々だが、すべての人に無関係でない話題だろう。
では、自分で人生にピリオドを打てる社会の誕生により我々にどのような影響があるのだろうか。
まず一番大きい影響は、夢に挑戦するハードルが下がることではないだろうか。
いつでも死ねるのだから、残りの人生を人質にしなくて済む。むしろ活力のある人にとっては成功の糧としての失敗をたくさんできるというアドバンテージを得られるので、夢への舗装整備だと感じられるだろう。
東北大震災以降、死は身近なものになった。若者は自分の人生について向き合う気持ちを強め、人との関わりを多く持ち、体験から得られる充実さを重視している。
それは「いつ死んでも後悔しないように」「人生は一回きり」という当たり前に横たわっていた事実をあるきっかけ(友人が不慮の事故に遭うなど)で認識し、自分に投影した結果だろう。現に「老後のことは老後の自分に任せればよい」と考えている人のほうがイキイキしているように感じる。
さらに、これは勘なのだが、好景気を体験したことがないというのも大きいかもしれない。「死」という「希望」とはまた違うモチベーションが、結果として「今にフォーカスする力」を与えてくれる。いつでも死ねることが、結果としての自由につながるのだ。自分にも心当たりがあるため、外れてはいないと思う。
「死」の存在が「生」の輝きに不可欠とされるのは三島由紀夫著の葉隠入門でも語られている。
葉隠入門 (新潮文庫) | 三島 由紀夫 |本 | 通販 | Amazon
現社会では、やりたいことがあるにも関わらず、それに取り組むことができない人が多いように感じる。人によって理由は違うが、金・仕事・家庭が多くを占めるのは容易に想像できる。なかにはリスク盛りすぎだろっていうくらい慎重な人もいる。
そういう人にとって少しでも、一歩踏みだす薬みたいな存在になれば「死」としても本望だろう。個人的には社会保障費の削減よりも大きなメリットだと思っている。
慎重さをかき消すお酒のような感覚で「死」が捉えられる社会になることを望む。
生きる喜びは死によって装飾されるのだから。